発症。
母が双極性障害を発症したのは
忘れもしない私が22歳の時です。
さかのぼりますが、
母が父と離婚したのは私が中学二年生の時。父が商売に失敗をして二億円以上の借金をし、引っ越しや転校を2回続けた一年後のことでした。
生まれ育った土地を離れ、仲良しだった友達と別れる辛さや田舎から都会での暮らしや友達のいない教室はただただ寂しく辛いだけの時間でした。
そこで中学二年生のわたしは初めて悟りを開きます笑
「辛い時はただ生きていて良いのだ」
これを極めて行けば友達のいない林間学校も、
また転校した矢先の修学旅行まさかの独り歩きも辛く無いとは言い難い日々も乗り越えて今があるのだと思います。
友達が居なくても家に帰れば大好きなミシンもあるし、休日は少ないお小遣いで買ったパン作りの本を見ながら美味しい香りに包まれる事が何よりの楽しみでした。
ミシンは母がお嫁に来た時に持たせてもらった直線縫いと端ミシンの機能のついた古いものでしたが、当時母がパート勤めをしていた縫製工場で余った安く譲ってもらえる生地で流行りのバルーンスカートやマーメイド型のロングスカートや少し上級の裏地生地をつけた光沢のあるワンピースは雇用促進アパートでの貧しい暮らしをしているようには見えない服に思えて得意な気持ちになったものでした。
自分で言うのもはばかれますが、何にでも一生懸命に取り組む真面目な性格だったので勉強も熱心にして進学を希望していましたが、母にヒステリックな鬼の形相で進学を反対されたので就職しやすい高校に入学、卒業後はすぐに就職しました。
あの頃は進学出来ない自分にとてつもないコンプレックスを持ち、毎日母を恨みごとをノートにと書き続けていましたが、親になった今は子どもを育てるにはお金もいるし気持ちに余裕がないと子育てはとても辛いのだと理解出来ます。
就職してからはとても自由でした。もともと兄と妹がいる中間子のわたしを縛るものはなく正社員としてデパート勤めに深夜喫茶のアルバイトで一人暮らしの生計を立て気ままに暮らし始めます。
転職もしました。医療事務の資格も取り総合病院での事務や歯医者さんでの受付事務、NTTでの電話番号案内のオペレーター業務にタイ王国料理店など好奇心だけで本当に自由にお仕事をコロコロと変えて生きていました。
中学生から今まで30以上のアルバイトや仕事をしました。
1番長く続いたのは7年通った深夜喫茶での厨房でのお仕事で食事もまかないを食べさせてもらってオーナーには調理師の免許まで取らせて頂いたので今でも感謝しています。オーナーはままちゃんと慕いとても人情味に溢れる人でした。冷めた生き方をしていた私に温かい言葉を沢山くれた女性でした。
25歳の年末。彼氏も居ないのに結婚がしたい。と深夜喫茶をやめた時はあんたほどワガママな人間知らんわ。とままちゃんには言われてしまいましたがワガママを全部受け止めてくれたままちゃんは私の第二のお母さんだったんだなぁと思います。この時にお母さんは誰でもなれるんだと思いました。
そこから一年後。父子家庭で4歳の男の子を育てる主人と友達の紹介で出会いまた一年後に結婚します。
母の発症まで書けませんでした。眠くなって来たのでのちのち書きましょう。
今日は白菜と鯵ミンチのお鍋に豚肉てさつまいもの炊き込みご飯をお夕飯に作り、
今週を乗り切るためのご褒美おやつ、バナナとさつまいものカップケーキに小豆を炊いてぜんざいを作りました。
母との暮らしは時々追い詰められる時があります。でもわたしの一度きりの人生こころゆたかにおだやかに生きたいのです。夕方に気分転換にコメダ珈琲店へ行き一息ついて、ふとこのblogを始めてしまいました。
今日も良い1日。
明日も良い1日に。